計算機科学と学問的思考

塩 沢 由 典
(大阪市立大学経済学部教授)


山崎正和・西垣通 編 「文化としてのIT革命」晶文社、200年10月

1.第3モードの科学研究法

情報化が社会に与える影響は、多方面にわたっている。本章では、計算する機械と してのコンピュータが、経済学のような社会科学(あるいはより広く人間科学一般) をどのように変えていくのかについて考えてみたい。

コンピュータすなわち電子式の計算機が出現してから、経済学は大きく変わった。 もっとも目に見える形では、計量経済学が実用化したことが挙げられる。計量経済学 は、広義には、経済統計などを基礎に経済の諸効果に対する数量的分析を行うことを 意味し、その国際学会は1930年に創立されている。しかし、マクロの経済予測などが 実際的に可能になったのはコンピュータが実用のものとなった1950年代以降のことで ある。現在では、計量経済学は、どの学部・研究科でも、必要不可欠な学科と考えら れ、計量経済学者が経済学者全体の中に占める割合も相当なものであるる

 マクロ経済予測は、マクロ経済モデルによって行われる。この分析は、1960年代に はひろく普及し、ケインズ経済学と計量経済モデルを組み合わせれば、景気変動をも 制御できると信じられるようになった。石油ショックなどで、経済が大きく変化した 1970年代には、このようなマクロ経済モデルの予測精度は大きく低下したが、それに 変わりうる方法がないことで、現在までもそのような方法が用いられている。計量経 済学は、大量の数値データを解析に掛け、諸係数を推定して、それに基づいてモデル を走らせ、将来の経済状態を推定する。このとき、統計学の理論とともに、必要とな るのが大量の計算を速く行うことであった。マクロ経済モデルの実用化のためには、 高速のコンピュータの出現がぜひとも必要であった。

 計量経済学は、しかし、経済学の考え方を大きく変えたとはいえない。データ間の 相関が強いなど、経済データの特殊性があり、そのために推定や検定のためにはさま ざまな工夫が必要だったとしても、それが経済理論に及ぼした影響は小さかった。計 量経済学と一番関係の深いマクロ経済理論をとってみれば、1970年代以降認められた 実質賃金上昇率と失業率の関係を示すフィリップス曲線の形状変化が合理的期待形成 理理論を有力にしたといった例がある。しかし、これとても、フィリップス曲線その ものは、統計データが与える実質賃金上昇率と失業率とをグラフの上にプロットすれ ばできるものであり、計量経済学がなければ起こらなかった理論の変化とはいえな い。計量経済学は、従来の経済学の考えに基づいて、経済分析の適用範囲を拡大した だけであった。

 ところが、最近になって、経済学の考え方が大きく変わりつつあり、そこにコン ピュータの利用が密接に関係している。それはコンピュータの利用により、従来の方 法ではできなかったさまざまな考察が可能になりつつあるという点に帰着する。この 動きをさまざまに呼ぶことができるが、ここでは、思考方法に対する大きな変化を明 示するするものとして「第3モードの科学研究法」という標語で呼んでみたい。 

第3モードの科学研究法は、第1・第2モードの科学研究法に対比して呼ばれる。 ここに、第1モードの科学研究法とは「理論」であり、第2モードの科学研究法とは 「実験」を指す。自然科学の発生以来、つまりガリレオ・ガリレイの時代以来、自然 科学は、基本的に理論と実験の2本建てで進んできた。「理論」はギリシャ時代の theoria(観想)からきており、「実験」はルネサンス時代に自然認識の方法として 認められたものである。社会科学では、実験が不可能である(あるいは難しい)と考 えられたため、理論と実証という対比が用いられているが、その精神はほぼ同じであ るといえよう。第3モードの科学研究法とは、ひらたくいえば単にコンピュータ・シ ミュレーションのことにすぎない。おおげさだと言えないこともない。しかし、この ような研究方法が今後の社会科学(ひろくは人間科学)にもたらす変化は、近世に なって実験・実証という方法が発見されたとき起こった変化以上のものになると予想 される。そこでは、なにが科学かという見方が変わり、真理そのものの地位や知とい うものの捉え方が変わってくる。その意味で、「第3モードの科学研究法」という呼 び名は、けっして過大なものではない。

もちろん、コンピュータ・シミュレーションそのものが、科学の見方を変えるので はない。このような方法によって初めて解析できる現象を学問的考察の対象とするこ とにより、従来の学問観そのものが変わらざるを得ないと同時に、学問観を変えるこ とで興味あるシミュレーションの課題が生まれてくる。その意味で、方法と学問観と は、相互に関係している。その意味で、第3モードの科学研究法は、コンピュータ・ シミュレーションそのものではなく、そこに生まれてくる学問観をも包括したものと 捉えなければならい。

2.行動をどう捉えるか

以下では、主として経済学に例を取りながら、人間の知識や行動にかんする理解が どのように変化してきたかを紹介する。

 経済学は、人間が損得勘定に基づいて行動していると考える。従来の経済学、とく に新古典派と呼ばれる経済学は、1970年代まで、人間は合理的に行動すると考えてき た。これは、いかなる財・サービスの配分状態にも「効用」と呼ばれる値が付与され ていて、ひとびとは経済的に可能な範囲でそれを最大化するよう行動するという考え である。一般均衡理論と呼ばれる経済理論は、この行動仮説のもとに需要関数を構成 して、供給に関する他の仮説と合わせて、均衡点(ある価格のもとで、すべての財・ サービスについて、超過需要が存在しない状態)が存在することを証明した。アロー とドブルーによるこの成果は高く評価され、ふたりともに(別の年度に)ノーベル記 念経済学賞を受けている。しかし、このような最大化計算が実際に行われている可能 性はすくない。それは自分自身の行動を反省してみても分かることだが、コンピュー タとともに発達した「計算量の理論」によれば、その不可能性はもっと劇的なもので ある。

 いま、コンビニエンス・ストアに行き、買い物をする場面を考えよう。そこに全部 でN種類の商品があるとする。予算の範囲内で、買い物の効用を最大化するには、次 の計算をすればよい。状況を簡単にして、一種類の商品は、ひとつ以上買わないこと にしょう。このとき、各商品ごとに買うか買わないかを1か0かで表すことにする。 そのような組み合わせは全部で2のN乗個ある。ひとつの組み合わせについて、予算 内にあるかどうかを確かめ、範囲内にあるときだけ、買い物の効用を計算する。結果 をこれまでの組み合わせで効用最大のものと比較して、新しい組み合わせの効用がよ り大きい場合だけ、その組み合わせと効用を記憶する。以下、別の組み合わせに取り 替えて、この計算を次々と2のN乗回繰り返せば、効用最大の買い物の組み合わせが 計算できる。

 原理的には、この計算に何の難しいこともない。唯一のトラブルは、計算時間が長 くかかることである。それは2のN乗に比例する。このことを実感してもらうため に、第1表を掲示する。 第1表 効用最大化の計算時間 問題のサイズ N 10 20 30 40 50 60 70 80 計算に要する 0.001 1 17 12 35 3.57 3.66 3.74 時間 秒 秒 分 日 年 万年千万年百億年

 商品の種類が10個しかない場合に、コンピュータで計算して1ミリ秒(すなわち 千分の1秒)で計算できるとしても、商品の種類が10個増すごとに、計算時間は約 1000倍となり、商品数が80個を数える当たりで、ビッグバン以来現在までの経過時 間(約140億年)を超えてしまう。コンピュータでやってもこれほどかかる計算を人 間が空でやっているということはまず考えられない。このことから、人間は、効用最 大化とは違う何らかの行動をしているはずだということがしたがう。

精緻な数学モデルの一番基底のところに、このような非現実性が入り込んでいると ころにこれまでの主流の経済学の問題点がある。この問題を回避使用とすれば、需要 曲線・供給曲線の交点に価格と取引数量が定まるという中学で教わるような基礎的な ところから理論の枠組みを組み直さなければならない。わたしの提唱する「複雑系経 済学」は、こうした認識に立って、「ではどのような経済学が可能か」を問いかける ものだ(塩沢由典『複雑系経済学入門』参照)。そこから派生する結論として、従来 の理論分析に認められる範囲を超えて、新しい方法(第3モードの科学研究法)の採 用が必要だという判断がある。

上の問題が「計算可能性」に関係していることは象徴的である。コンピュータの発 達は、これまで区別されてこなかった二つの概念の決定的な差異を明らかにすること になった。原理的計算可能性と実際的計算可能性との間には、巨大なギャップが存在 する。その一番分かりやすい例は、碁や将棋などの盤面ゲームにある。このような公 開・交番・有限回決定ゲームでは、先手か後手にかならず必勝法がある。碁や将棋に は、引き分けがあり、厳密には有限回決定ゲームではないが、その場合でも、不敗法 がある。これは数学の定理であり、記号論理学の知識があれば簡単に証明できる。し かし、この定理があっても、将棋や碁の必勝法が計算できる訳ではない。チェスで は、世界チャンピオンを負かすコンピュータができたが、あれも必勝法を計算してい る訳ではない。必勝法がありながら、なぜそれが見つからないか。ここに原理的計算 可能性と実際的計算可能性の差異が現れている。原理的には計算可能だが、実際的に は計算できないのである。

 実際的計算可能性は、どのくらい速いコンピュータを使って、どのくらい時間を掛 けるかにより、答えは変わってくる。しかし、碁や将棋の場合、今のスーパー・コン ピュータが5桁・6桁速くなっても、人間の一生の範囲に決して入らないくらいの時 間がかかる。したがって、必勝法は、実際的にはけっして計算可能ではないといって よい。計算機科学の発達する以前には、このような差異には現実的意義がないものと して無視されてきた。複雑系科学は、多くの契機がからんで生まれてきたものだが、 ひとつの大きな契機がこの差異の発見とわれわれの世界に対するその重大な帰結の承 認である。

 このような考え方の変化の代表的な事例が人工知能のおけるフレーム問題として知 られている。人工知能は、人間の認知能力をコンピュータで再現したり、人間の運動 能力をロボットで実現しようとする。それらは限られた用途については高い能力発揮 するが、汎用性に乏しいという欠点がある。問題状況が変わると、うまい対応ができ ない。結局、問題を解く枠組みは人間が与えてやる以外にないというのがこれまでの 結論だが、ここにも計算問題が関係している。汎用性の高いロボットを作ろうと思え ば、見える限りのすべての要素を物理的対象として取り入れて、それらの作る微分方 程式系を解いて最適な行動を計算するということになるが、こんな問題を解こうとす ればロボットは考えこんでしまって、一切行動することができない。

経済学や人工知能におけるこのような問題は、人間の行動と知識に関するわれわれ の理解を大きく変えることを余儀なくさせている。最初は、計算する機械というアナ ロジーで人間を捉えられると考えてきたが、それは大きな誤りであった。人間は最大 化する機械ではない。人間は、もっと別の原理にしたがって行動しているに違いな い。それはなにか。経済学に突き付けられた問題はこれであった。人工知能では、反 対の方向から、同じ問題に接近することになった。計算機にできて、人間にできるこ とがあるとすれば、いったい人間はどのようにしているのか。これが人工知能や認知 科学が解かなければならない問題であった。

 経済学にとっては、別の要請もあった。どのような認知作用が働くのであれ、結果 はある行為として現れる。それをどう定式化するかが問題であった。わたしはいくら かの考察とかなりの偶然から「定型行動」ないし「ルーティン行動」を鍵概念として 選んだ。「ルーティン」という用語がいちばん手掛かりになった。人間の行動をルー ティン束として見たらどうなるか。あるいは、そう見ることによって、どこまで人間 行動に迫れるか。これがわたしの長い自問だった。ヒントは、さまざまな分野にあっ た。経営学には、満足原理や限定合理性、組織原理としてのチャネリング規則やフィ ルタリング規則、意思決定のごみ箱モデルなどがあった。動物行動論には、ユキュス キュルの環境世界論があった。記号学では、吉田民人がCD変換(後出)という概念 を用意していてくれた。そのような雑多な知識を渉猟する中から、人間行動のすべて でないにしても、すくなくともかなりの部分が定型ないしルーティンという見方で捉 えられると確信できた。

 定型ないしルーティンとして行動をみるということは、結局、習慣として行動を捉 えることに他ならない。こう見てくると、経済学では古くはヴェブレンが習慣を問題 にしていたし、哲学にはもっと古い時代からの流れがある。なにか遠回りして、むか しの常識に戻った気がしないではない。ただ、経済学の完全合理主義という極端な見 方から立ち返って、このような常識を再発見したことが、おなじ習慣を考えるにして も、その捉え方がかなり変わったのではないかと考えている。

3.CD変換とマルティ・エージェント・モデル

 吉田民人のCD変換という概念は、定型やルーティンのさまざまな形態のもっとも 基本的な形を提出している意味で参考になる(吉田民人『自己組織性の情報科学』参 照)。ここでCはCognitive meaning (認知的意味)を、DはDirective meaning (指 令的意味)を表す。吉田はパースからモリスへと引き継がれた、意味を解き口 (interpretant)として理解する立場を定式化するためにこれをもってきた。あらゆ るタイプの行動理論は要するにCD変換の記述的ないし規範的理論だと吉田が指摘す るように、CD変換という定式はたしかに大変な広がりをもっている。表象としての 意味をもつ記号を人間が操れるようになるはるか以前の下等動物の時代から、生物は CD変換をもちいて生きてきたのではないだろうか。

 CD変換は、容易にコンピュータの中に取り込める形をしている。サンタフェ研究 所のホランドが提案しているクラシファイア・システムは、エージェント・モデル (判断する行為主体を内包するモデル)の典型だが、そこでは、外界の刺激をある ビット列(0と1からなる数列)として表現し、それがあるパタンにしたがうなら、 エージェントはある行為を行うというように設計されている。かれはエージェントを CD変換を行う主体と捉えている。この定式は、遺伝的アルゴリズム(いわゆるG A)に乗せるにも容易であり、現在、マルチ・エージェント・モデルと称されるシ ミュレーション研究の基本形になっている。人工市場なども、価格を形成する市場の 規則自身は単純なものなので、価格変動の複雑さは、個々のエージェントがどのよう なCD変換をもち、それらがどのような進化するかに依存している。詳しい紹介はで きないが、この方面は、現在、急速に進行している部分である。

こうした定式を生身の人間ないしは動物に当てはめるには、もちろん、いくつかの 留保がいるだろう。たとえば、Cの意味を読みとるというのは、コンピュータが得意 としないパタン認識であるが、クラシファイア・システムは、ここをあらかじめビッ ト列に置き換えてしまっている。こうした問題はあるが、人間行動をCD変換と捉え ることにより、マルチィ・エージェント型のコンピュータ・シミュレーションが可能 になる。エージェントのひとつひとつ(あるいはひとりひとり)は極めて簡単だが、 それらが多数あつまり相互に作用すると、けっこう複雑な現象が起こる。それで人間 社会のすべての現象が解明できる訳でないかも知れないが、すくなくともこのような 定式化で初めて明らかになる多くの現象がある。

 経済学の例を引けば、金融市場がある。これはもっともワルラス型に近いと考えら れてきたが、実際には価格の乱高下に満ちている。このような乱高下は固定的な需要 関数・供給関数を想定するかぎり出てこない。しかし、マルティ・エージェント・モ デルでは簡単に観察できるし、価格変動の統計的性質としても、すくなくとも正規分 布などよりは現実に近いものがだせる。微分方程式や不動点定理を使う数学ではでき なかった分析が、はるかに簡単にできるようになったところに、こうしたモデルの意 義がある。第3モードの科学研究法の可能性が示されているといってよいであろう。 

もうすこし具体的に、金融工学とマルティ・エージェント・モデルとを比較してみ よう。金融工学は、経済・経営関係ではもっとも先端的な理論分野とされている。た とえば、オプション価格を与える有名なブラック・ショールズ式は、一般化された ウィーナー過程という確率過程の理論を使って証明されている。その途中で伊藤のレ ンマ(伊藤清の与えた確率過程の計算公式)が使えるということも日本ではよく知ら れている。これはノーベル賞をもらった研究であり、たしかに数学理論のすばらしい 達成のひとつだ。しかし、そのような美麗な理論を成り立たせるために犠牲にしたも ののことを考えなければならない。ウィーナー過程では、確率変数は任意時点で正規 分布をなすと仮定される。この仮定をおかないと、式が複雑にになって、ブラック・ ショールズ式の証明のようにきれいには解けない。しかし、すでに上で触れたよう に、株式の収益率は正確には正規分布に従わないことはよく知られた事実である。だ いたいは釣り鐘状になるが、中央部ではより高く、周辺部でもながく尾を引いてい る。いわゆる「高い頂上、厚い裾野」という性質である。一般ウィーナー過程は第一 近似だという考え方もあろう。そういう理想化の結果として、ブラック・ショールズ 式は目安になるし、これに変わるものがないかぎり、それは貴重な知識である。しか し、他方では、こういう定式にこだわっていると、金融市場の重要な性質を見逃すこ とにもなる。

 たとえば、先の「厚い裾野」であるが、金融市場では、5シグマ・6シグマという ような現象がしばしば起きる。シグマは、分布の標準偏差である。たとえば、ニュー ヨーク・ダウの一日あたりの収益率の標準偏差(ヴォラティリティ)は、1940年代以 降1970年代まで、1パーセント以下であるし、それが上昇した1980年代でも1パーセ ントをやや超える程度である。ところが、1987年のブラック・マンデーでは22.6パー セントの下落を記録しているし、97年と98年にもそれぞれ7.2パーセント、6.4パーセ ント下落した日がある。もし収益率の分布が正規分布ならば、こうした現象は1万年 とか百万年に1回という比率でしか起こらないはずのものである。多数のランダムな 要因が独立に作用すると正規分布を作るが、株式市場ではあきらかにそれとはことな るメカニズムが働いている。これは稀ではあるが、数年に一回おきるという意味では 無視できない事象だ。金融工学は数学を駆使するが、基本的には無裁定状態を仮定す るので、こうした事象を扱えない。

 では現実の市場ではなにが起きているか。それはミクロ・マクロ・ループという概 念で説明できる。参加者のもっている仮説の世界をミクロ、市場の価格変動をマクロ とするとき、ミクロとマクロとの間に相互作用がおきている。たとえば、多くのひと が株価が値上がりすると思えば、買い注文が殺到していじっさいに値上がりする。つ まり予言の自己実現効果がある。こんなメカニズムは、微分方程式で書いてもうまく 表せないが、マルティ・エージェント・モデルではすぐに実現できる。こうした研究 が金融工学に代替できるとは言えないとしても、すくなくともそれに補完的な考察の 可能性を開いていることは間違いない。

じつは今、工学系のひとたちに参加してもらい、U−Mart計画という研究プロ ジェクトを進めている。これは単なるコンピュータのなかのシミュレーション・モデ ルではなく、多数の人間が参加して実際の市場を作ってしまおうというものだ。イン ターネットを使い、どこからでもアクセスできるようにすれば、実験的にも可能にな る。よくある株取引の模擬市場と違う点は、U−Martでは、内部に値付け機構を もっていることだ。しかも、任意の名目的な商品ではなく、現実には存在しない指数 の先物を取引対象としているので、現実とも接点をもっているというかつてない特徴 を備えている。いま考えているのは、毎日新聞が作ったJ30という指数の先物。U −Martは学術研究のための試験台(テスト・ベッド)なのでお金のやり取りはし ないが、じつはその気になれば(そして、金融監督庁の許可を受ければ)実際の市場 としても機能する。こうしたいわば実物大の実験装置が作れるというのも、インター ネット時代の特徴だろう。

 実物大の地図というと役に立たないものの代表だが、U−Martでは、生身の人 間(ヒューマン・エージェント)以外にマシーン・エージェントをも並行して参加さ せ、ある程度にたような結果が得られることが分かったら、マシーン・エージェント のみでシミュレーションすることも計画している。こうすれば、同じ状況をなんどで もたどれるし、時間短縮も可能だ。

4.知識と真理の見直し

U−Martのような金融人工市場を対象にするおもしろさは、ただそれが金融技 術として使えそうだというところに止まらない。U−Martの最大の目標は、金融 市場の制度設計に役立てたいというところにあるが、哲学ないしは知識論としても、 かなりおもしろい話題が提供できる。

テクニカル分析の意味を考えるなどもそのひとつだろう。テクニカル分析とは、罫 線分析あるいはチャート分析の最近の名前で、実態が変わった訳ではない。ただ、こ れとは異なるものとしてファンダメンタル分析という概念があり、対比上はこう呼ぶ 方が座りがいい。

 伝統的な経済理論では、テクニカル分析は無効ということになっている。これを 「弱い効率市場仮説」という。経済学者の強い支持があるにもかかわらず、いまだ 「仮説」と呼ばれるのは、それが成立するとも成立しないとも確たる証拠がないため である。ところで、市場にテクニカル分析する人がいて、株価の動きで予想を立て、 それにしたがって株の売買わするとすれば、ある局面では予言の自己実現効果が働き うる。これはエージェント・モデルで簡単に確かめられる。そうすると、すくなくと も、自己実現効果が働いている瞬間には、予想は正しかったことになる。

 もうひとつ、これは有名なヘッジ・ファンドを率いるジョージ・ソロスの挙げてい る例を引くと、格付け機関の格付けにも、ある種の自己実現効果が働く。たとえば、 ある企業の格付けが実態に関係なく引き下げられたと仮定しよう。その企業の資金調 達は困難になるか、すくなくとも調達コストが高くなる。するとその分だけ、企業の 業績は悪くなる。場合によれば、適切な資金調達ができずに倒産するかもしれない。 結果として低い格付けは正当化されることになる。このような事態をソロスは reflexivity(相互作用性、再帰性)と呼んでいるが、これもミクロ・マクロ・ルー プのひとつの表れである。

このような事態が金融市場の常態だとすると、真理とはなにか、正しい知識とはな にか、という問題まで考えなおさなければならない。われわれの思考と関係なく、客 観的に存在する真理という概念がここではなりたたない。社会科学は、理論と実証を 二本柱にして進んできた。「自己実現的予言」という議題は、社会学者のマートンが すでに1940年代に取り上げられているが、真理や知識の地位(status)を問い直すと いう点ではどれだけのインパクトをもったのだろうか。それ以後も以前として素朴な 実証主義が通用しているのは、理論と実証という対によっては、なかなか人を説得で きないことがあるということではないだろうか。第3モードの科学研究法がたんに新 しい話題の提供・新しい領域の開拓に終わらないとわたしが思うのは、こんな問題に までエージェント・モデルはかなり説得力を示しているからである。

真理とはなにかという点ばかりでなく、知識とはなにかという点でも、エージェン ト・モデルは示唆的である。伝統的な知識観では、知識は、ある事実を記述し、記憶 し、伝達するものであった。しかし、事実の真理性に疑問が生ずるとき、正しい知識 を真なる事実の記述ないし記憶としてよいであろうか。さらにいえば、そのような事 実記述が知識のもっとも重要な役割であり、形式であろうか。

 経済学で定型行動が問題になり、エージェント・モデルでクラシファイア・システ ムが典型となるのは、行動を支える知識として、事実記述より重要なものとして、C D変換型の知識があることを意味していないだろうか。吉田民人がいうように、「神 経性情報処理のそもそのもの原初形態」がCD変換だとすれば、G.ライルのいう  knowing-how の方が、かれのいうknwoing-that より根源的な知識の形態ではないだ ろうか。

 すべてが疑問形で終わってしまうが、このような疑問をも考えさせるものとして、 第3の科学研究法はある。あるいは、たんなるシミュレーションと区別するとすれ ば、こうした点を考えてこそ、第3の科学研究法といえると定義すべきかもしれな い。いずれにせよ、こうした意味で、コンピュータと情報通信の発達は、学問の考え 方に巨大な衝撃を与えているし、与えていくに違いない。


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