開発政策のパラダイム転換と複雑系経済学



塩沢由典
(大阪市立大学)

1.開発政策おける経済学の役割
開発経済学に経済学が一定の役割を果たすべきだということは自明なことであろう。しかし、開発政策において、経済学は、現在、経済政策に対して経済学が通常もつ以上の特別な役割を担わされている。第1図は、その関係を概観したものである(1)。

1.1開発経済学の概観
 開発経済学(ないし発展経済学)は、第2次大戦後、アジア・アフリカ諸国が政治的独立を達成するのに並行して成立した。初期の開発経済学は、構造主義と呼ばれている。これは、古典経済学の経済観にケインズ経済学的分析を接合したものといわれ、偽装失業・2重経済論・供給制約・輸出ペシミズム論などの理解の上に、政府主導・輸入代替工業化を政策的な柱としていた。しかし、1960年代以降、新古典派の考え方がしだいに強くなり、1980年代にはIMF・世界銀行の構造改革プログラムの導入とともに、各国の経済政策にも大きな変化が現れた。それが、いわゆる「新古典派復興」である。
 新古典派経済学は、通常の経済学ないし経済理論の標準的な経済学として、現在、主流ないし正統の地位を占めている。この経済学の背後には、ひとびとの行動は合理的であり、市場を通してほとんどのことは実現できるし、またそうした方が、結局、成果が高いという思想がある。この思想が途上国に当てはめられるとき、それは開発政 策におけるある特有な方向づけをもつものとなる。
 経済発展は、ひとびとの自発的なイニシアティヴでなされるべきであり、その調整は市場を通して行われる。政府はこの過程に介入すべきでない。したがって、途上国政府は、民営化・規制緩和を進め、資本取引を自由化して、国際的な競争下に効率的な経済を創造しなければならない。この思想をひとつの政策プログラムにまとめたものが、IMF・世界銀行の構造改革プログラムである。
 1980年代の債務危機に対処するため、IMF・世銀はこれを借款供与の条件として支援先各国に押し付けた。
経済発展の基本が自発的イニシアティヴにあり、競合する創意の用・無用や優劣を判定するは、政府・行政機関ではなく、市場であるべきだという基本の考えに間違いはないであろう。しかし、政府の役割を通貨の安定を中心とするマクロ経済管理に限定し、各国の状況に無関係に一律のプログラムを押し付けることには大きな問題がある。市場が十分発達した先進経済においては有効な政策が、かならずしも途上国でうまく作用するとは限らないからである。現に、IMF・世銀が介入した諸国のその後の経済成果は、一般的にあまりよくないと評価する人がいる。構造調整プログラムが経済の回復をむしろ遅らせているというのである。
 このような事情を背景に、1990年代に入ると、新古典派の市場至上主義に異議を唱えるさまざまな考えが表明されるようになった。絵所秀紀は、これを開発経済学の(第2の)「パラダイム転換」と呼んでいる(絵所、1997、第4章)。パラダイム転換の提案として、絵所氏は、@国家の積極的な役割を必要と考える「新しい開発の政治経済学」、A低開発とは市場の未発達な状態であって、そのことを考慮に入れて政策を考えなければならないとする、「市場育成論」や制度や組織の重要性を中心におく「新制度派アプローチ」、B外部性や収穫逓増に着目して産業政策を高く評価する考え方、Cさらに、貧困とは個々人の基礎的な能力が欠如した状態であり、経済発展のためには、個人の潜在能力の拡大・開発を図らなければならないとする「人間開発アプローチ」を挙げている。このような試みの中には、Aの「市場経済発展促進アプローチ」を唱える石川滋、比較制度分析の立場から「市場強化」を主張する青木昌彦、Bの学習にかんする収穫逓増を強調した村上泰亮など、日本の経済学者が大きく貢献している。
 開発経済学のこのような転換は、経済政策に対する考え方の転換に呼応するものである。合衆国で教育をうけたエコノミストたちの市場一辺倒の考え方に対し、世界銀行の日本選出理事となった白鳥正喜は、途上国の経済発展を保証するものとしての政府の役割を強調し、一律なプログラム押し付けと市場至上主義の考え方に対し、世界銀行の内部で異議を唱えた。新古典派エコノミストたちは、自分たちの自由化路線の成功例として、アジアNIESをつねに取り上げてきたが、韓国の輸出志向型工業化という一例をとってみても、それを自由化路線ということはできない。白鳥は、そこで東アジアの経済的成功の研究を提案し、共同作業の結果、生まれたのが世界銀行編『東アジアの奇跡:経済成長と政府の役割』(1993:1994)である。この報告は、白鳥の主導によって生まれたものではあるが、すべてが白鳥およびそのアドヴァイザーたちの意見で統一されている訳ではなく、そのメッセージは、読み取りにくいものとなっている。日本の異論が受け入れられるためには、それを裏付ける経済理論が必要であり、それがなければ正当な主張も広い支持を得ることはできない。経済理論に対する政策からの要請はこのように具体的なものである。

1.2アジアの経済発展と現在の課題
 経済政策の変化は、アジア経済がおかれた状況にも条件づけられたものとなっている。独立直後の初期工業化の時代には、各国とも、産業化の基盤をほとんど欠いた状態から出発する以外になかった。この時代に、政府主導の蓄積が試みられたのは当然であろう。長い植民地支配の後遺症として、経済的独立への希望も強く、外資導入に対する根強い抵抗もあった。国家主導・輸入代替工業化がその基本的な戦略であり、外資の導入は厳しく制限された。しかし、そのような閉鎖的・内向きな政策のもとでは、目覚ましい発展は起こらなかった。東南アジアの経済成長は、政策が外向きに変わり、日本などの資本投下・工場進出に並行して起こった。いったん軌道にのると、それは8パーセント超の高成長を20年以上続けるという日本の高度成長期をしのぐ成果を示した。
 このような成功のきっかけを作ったものが政府の政策であったとしても、それを実際に担ったのは民間の企業部門であり、豊富に供給された優秀な労働力であった。市場指向型の経済政策が、ある程度、アジア諸国に受け入れられたのは、たんに世界銀行の強要があったばかりでなく、そのような政策を必要とした経済状況があったからといえよう。しかし、このような経済成長は、1990年代に入って、各国とも、ある種の壁にぶつかることになる。この点を才気煥発に衝いたのがクルーグマン論文(Krugman、1994)である。
 クルーグマンは、アジアの成長を、1950年代までのソ連の経済成長になぞらえ、外延的成長に頼ったソ連経済が、その後、減速を余儀なくされたように、アジアの高成長も主として労働力供給の限界から、近い将来、減速を余儀なくされると主張した。主張の衝撃的な性格もあって、この論文は反響を呼んだ。昨年以来の金融危機により、東アジア・東南アジアの諸国は、のきなみ大きな打撃を受け、経済は混乱に陥っている。これは一見、クルーグマンの予言を実現するもののように見えるが、その内実は大きく異なっている。
 クルーグマンが依拠したのは、マクロデータに基づく、韓国とシンガポールの生産関数の推定であった。この推定の妥当性自身が問題であるが、アジアの経済発展が、資本と労働の量的な投入拡大という性格をもっていたことは否めない。農村労働力の移動・女性労働の拡大・労働力の高学歴化といった、これまでの豊富な労働供給を支えてきた社会的メカニズムに制約が生まれつつあることは事実であり、今後の経済発展を図るには、技術進歩や生産性の向上を図らなければならない。アジア経済自身が転換点にたっている。転換点をうまく乗り切るには何がなされるべきであろうか。そのような新しい課題に対し、有効な政策提言を行い、それらを実行していくことが日本の役割であろう。
 新しい政策は、新古典派とは根本において異なる考えから発想される必要がある。したがって、新しい政策の妥当性を主張するためには、それをバックアップする新しい経済理論が要請される。経済理論が開発政策においてもたざるを得ない特別な役割とは、この要請に答えることである。ここでは市場経済の捉え方が争われている。既製の理論の枠内で政策変数を変化させ、最適な制御を行うという従来の政策決定とは異質の課題であることに留意する必要がある。
 開発経済学のパラダイム転換にかかわるさまざまな経済理論はすべて、このような要請に呼応するものであろうが、複雑系経済学もそのひとつとして存在している。この経済学は、まだ新しく未完成なものであるが、パラダイム転換を担う他の潮流に比べて、経済理論の基本にまで降り立って、理論枠組み転換を目指すとともに、市場経済の働きに関するイメージを再編する点に特徴がある。第2節では、まず、複雑系経済学の基本的な考え方を紹介し、第3節において、このような経済学が提起するいくつかの議題を提起したい。

2.複雑系経済学
 複雑系経済学は、一般均衡理論に対する代替的な理論のひとつであり、制度経済学および進化経済学と密接な関係をもっている。じっさい、3者は、おなじ経済学の3つの異なる側面と考えることができる。制度経済学は、諸制度の作り出す構造に、進化経済学は、制度や技術や商品の時間的な変化に、複雑系経済学は、人間の意図的な行動に、とくに光を当てようとするが、相互に他の見方に補われる関係にある(2)。

2.1一般均衡理論の拒否
 複雑系経済学の出発点は、均衡理論の枠組みそのものの否定にある。均衡理論は、価格体系を独立変数とする、需要関数・供給関数の存在を前提とする。
 このような関数を構成するため、均衡理論は、経済主体が二つの仮定を満たすものと想定している。ひとつは、消費者に対する効用最大化の仮定、もう一つは生産者に対する収穫逓減の仮定である。ところが、これらの仮定は、次にみるように、現実性の乏しいものであり、たんに理論の必要のために前提され続けられてきたものである。
 消費者行動の理論の非現実性は、予算制約条件付効用最大化問題を極端に簡単化した次の問題を考えることで例示される。

0−1ベクトルについて、予算制約
x1・p1+x2・p2+・・・+xN・pN≦B
を満たす範囲で、効用
x1・u1+x2・u2+・・・+xN・uN
を最大化せよ。ここで、Bは予算制約,p=(p1,p2,・・・,pN)は市場価格の体系である。

 0−1ベクトルとは、その成分がすべて0か1のみからなるベクトルをいう。この設定は、売買が単位ごとに行われること、最初の1単位で効用が飽和することを仮定していることになる。効用関数が係数u1,u2,・・・uNをもつ一次式である点にかなりの簡単化があるが、買い物が単位当たりで行われると考える点で、経済学的にはむしろ現実的となっている。
この問題を解くための計算量を推定してみよう。これは、じつは計算量の理論の方面では有名なナップザツク問題であり、NP完全という性質をもつことが知られている。この問題は、2N に比例する計算時間で解くことができる。しかし、それより速い、多項式時間(Nの多項式に漸近的に比例する計算時間)で解を求める計算プログラムは存在しないと予想されている(計算量の理論の基本予想)。
 2のN乗に比例する計算時間は、急速に増大する。第2表は、そのひとつの推定例である。財の種類が10個のとき、計算が1000分の1秒で終わるとしても、財の種類が10増えるごとに、計算時間は210=1024倍になる。そこで、表にみるように、財の種類が40にもなれば、コンピュータで計算するにしても実際的でなくなるし、財の種類が80にもなれば、ビツグバン以来の時間をかけても、計算は終了しないことになる。ところが、コンヴイニエンス・ストアに足を踏み入れれば、そこには3000点からの商品が並べられている。したがって、消費者が効用を最大化して買い物しているとは到底信じられないこととなる。
 新古典派の消費者理論は、無限の計算能力のある消費者を想定している。このような仮定を無限合理性あるいは完全合理性の仮定という。これに対し、複雑系経済学では、人間は有限の計算能力・推論能力しかもたないとする限定合理性の仮定を採用する。これが人間の経済を行動を考える出発点となる。この点は、2.2項で考察する。
 供給関数の構成についても、おなじような困難がある。価格体系を独立変数とする供給関数という概念は、所与の価格のもとに企業がこれ以上供給したくないという最大供給量が存在することを前提としている。これが極めて非現実的な想定であることは、ほとんどの企業が所与の価格で売れるならもっと売りたいと考えていること、そのために広告その他の営業努力をしていることから明らかである。しかし、一般衡理論は、その枠組みとして、価格変数の需要関数・供給関数を必要とするため、現実から離れて、各企業は所与の価格のもとに利潤が最大となる生産=販売数量があると仮定している。その上で、それを実現する点が、販売価格=限界費用を満たすことを説明している。この点においては、企業の生産条件は収穫逓減の状態になければならない。
 しかし、原価計算の実際を見てみれば分かるように、通常の生産においては、総費用は固定費用+比例的費用という形をもち、平均費用は逓減、限界費用は一定という仮定が生産容量一杯の点に至るまで、ほぼ一様に成立している。収穫逓減の仮定は、工業的生産においては、ほとんど現実性をもたないが、マーシャル以来これまでつねにそれが仮定されてきたのは、その仮定なしには価格変数の供給が構成できないという理論の必要があるからに他ならない。
 以上をまとめてみると、第2図となる。新古典派の経済学で、無限合理性と収穫逓減が仮定されるのは、それにより需要関数・供給関数を構成し、一般均衡理論を成立させるためである。逆にいえば、一般均衡理論の枠組みを維持しようとする以上、無限合理性や収穫逓減といった非現実的な仮定から逃れ出ることはできない。
 複雑系経済学は、人間の思考能力・計算能力には限界があり、企業の生産条件は一般に収穫逓増状態にあるという前提から出発する。つまり一般均衡理論とは、正反対の前提、すなわち限定合理性と収穫逓増とから出発する。このことは、一般均衡理論という新古典派の理論的枠組みを拒否することでもある。

2.2経済行動の捉え方
 完全合理性の否定の上に、どのような経済理論が構築可能であろうか。そのために、人間の意図的行動に関する見方を変えるところから出発しなければならない。新古典派は、無限合理性の前提のもとに、目的関数を最大化するとして人間行動を定式化してきた。経済学は、それにより数学的定式に基づく厳密科学となったが、その代償として、現実性から遠ざかることになった。限定合理性を前提とするかぎり、ほとんどの場合、最大化の定式を採用することはできない。それでは、人間は、まったくデタラメに非合理な行動を行っているのだろうか。限定合理性の概念は、人間が非合理な行動を行っているという主張ではない。それは、彼あるいは彼女の思考能力・計算能力の範囲内でできるかぎり有利な行動を行っているという理解を含意している。このような行動をすべて一挙に説明する原理は存在しないと思われるが、一般的考察が不可能なわけではない。
 人間の意図的行動の多くは、定型的な行動と捉えることができる。これは、習慣、慣習、ルーティンなどさまざまな名称をもっているが、その行動の形態は同じものである。定型的な行動を、そのもっとも基本的な形で捉えたものが、吉田民人のいうCD変換である。これは認知的意味(Cognitive meaning=C)を指令的意味(Directive meaning=D)に変換することを意味している。このような判断から行為へという組み合わせの重要さについては、中岡哲郎の証言がある。中岡は、『工場の哲学』(平凡社、1971)において、労働者の熟練について考察し、熟練を構成する判断が、「徴候→結果」という「整理されたパタンの群」のようなものであり、そこには「ほとんど思考めいた過程」が介在していないことを注意している。徴候を認めると、反射的に手あるいは足が動いてしまうのである。
 定型的な行動は、このようにつねに単一のCD変換からなっているとはかぎらない。むしろ、通常は、いくつかのCD変換が分岐図のように組合わされて、プログラム化されている。このようなプログラム化された定型行動の代表的なものとして、クッキング・カードを挙げることができる。これは、どんな材料を買い集め、どんな手順で料理していけば目的の料理が作れるかを簡潔に記したものである。もちろん、ここには味加減など、記述しきれない微妙な変化がありうるが、最小限の知識としては、このような形での記述が可能である。
 定型行動は一般に指令的な知識によって支えられている。後者は、暗黙知のように、言語化されない(あるいは言語化しえない)場合もありうるが、これらの知識が条件付命令(conditional imperatives)の形をとり、宣言的命題(declarative propositions)の形をとる知識とは区別されることが重要である。従来の論理学では、知識はすべて世界にかんする宣言的命題として整理され得るものとされ、それらは真あるいは偽の値を取るとされてきた。しかし、行動を支える知識は、ライルのいうknowing-thatの知識である宣言的命題よりも、より直接的にCD変換ないしそのプログラム化されたものとしてknowing-how の領域に属している。
 行動のこのような見方は、コンピュータ・シミュレーションによる経済過程の分析に可能性をもたらす。3.1項における逸脱増幅機構の分析は、そこに至る中間的な考察と見なすことができる。

2.3制度と組織
 限定合理性について考察していくと、制度や組織についても、新古典派とはことなる見方が出てくる。現在では、新古典派の流れを汲む経済学においても、しばしば制度が取り上げられている。しかし、そこでは、制度は行動の制約条件としか捉えられていない。しかし、制度はたんに人間の行動に付加的な制約をあたえるものではない。慣習とおなじく、制度は合理性に限界のある人間に行動の可能性を教えるものでもある。
 度量衡のような制度は、経済生活に秩序をもたらし、貨幣はひとに物理的な予算制約を課している。多くの企業の行動は、マニュアル化された行動準則にのっとってなされるが、それは従業員を逸脱から守るためばかりでなく、どのように行動したら効率的に高い成果が得られるか教えるためのものである。
 企業のような組織体そのものが、慣習を含む多くのルーティンによって機能している。組織内部の情報の流れは、経路規則(routing rule)と濾過規則(filtering rule)の二つの標準手続きによっている。コースは、企業を契約の束と考え、組織か市場かの選択が取引費用の大小でなされるという考えを示した。
 企業は、しかし、単純な契約の束ではない。各職場・各持場の従業員がおこなうルーティンの束として企業はあり、それらが全体として高い成果を生み出すよう組織の構造を変え、刺激・目標の体系を考え、行動を変化させることが経営者の役割である。

2.4ミクロ・マクロ・ループ
 個々の経済行動は、定型として繰り返されるものであるとともに、知識の増大や発見によって、新しい定型に切り替えられていく。この意味で行動には、進化論的な分析が可能である。このとき重要なことは、ある定型行動の平均的成果を定めるものは、マクロともいうべき経済の全体過程である。個々の経済行動は、それらの相互作用として経済の全体過程を形成するとともに、その過程の特性に従属するものでもある。この意味で、安定的な定型行動は、全体過程とひとつのミクロ・マクロ・ループを形成しているということができる。このようなループが形成されない場合には、過程は過渡的な状態にあり、3.1にいう逸脱増幅機構が働いている状態と考えられる。複雑系経済学では、行動自体の安定性が問題になる。
 ミクロ・マクロ・ループの一例として、日本的経営と言われる企業の行動と戦後の高度成長・安定成長というカップリングが上げられる。終身雇用、年功序列、労使協調という企業の政策は、高度成長・安定成長という成長機軸の状況においては、生産性の向上や品質管理により、企業ないしは日本経済の成長の重要な要因となっている。逆に、高度成長・安定成長が企業規模の拡大を許し、日本型経営の基礎条件をなしていたことは、長期の不況の結果、日本的経営に対する批判や見直しが強まっていることからも推察される。

3.理論と政策課題
 開発政策の対象は、一応すべての途上国ということになっているが、その発展段階や抱えている課題には、国あるいは地域により大きな差異がある。ここでは、日本と関係の深い東アジア・東南アジアの諸国について考えよう。簡単には、日本を除くビルマ以東のアジア諸国を東アジアと略称する。東アジアの金融危機という場合、ここには明らかに東南アジア地域が含まれている。
 以下では、東アジアの抱える幾つかの問題につき、複雑系経済学の立場から政策的な提案をする。この提案は、しかし、ひとつのヒントであり、一般的な示唆であって、現実の政策として採用するには、各国の事情に合わせて問題を掘り下げ、その妥当性をさらに検討し直さなければならない。
課題の緊急性の順に、2つの問題を取り上げたい。

3.1金融危機と逸脱増幅機構
 昨年、東アジアを襲った金融危機は、ひとつの見方によれば、東アジアが抱える潜在的困難を早期に露呈させたものにすぎない。市場はつねに均衡状態にあるという新古典派の考えによれば、金融危機は、基礎条件の急激な変化を反映しているにすぎない。この立場に立てば、金融危機はひとつの指標であり、根本の弱点ないし歪みが表出したものである。その根本に取り組むことなく、金融危機の発生を抑えることは、歪みの認識を遅らせ、長期的には健全な経済発展を阻害することになる。このような解釈は、インドネシアにかんするものを除いては、現在あまり表面に出ていないが、市場万能の考えに立てば、当然、こう考えるのが正しいということになる。
 わたしの見方は、これとは異なる。アジア金融危機は、国際金融市場の特異な内部機構により、調整機構としての市場の機能が阻害された状態である。そのため、危機がなければ避け得た経済的困難に、タイ、マレーシア、韓国などが直面している。わたしは、こう考えている。このことは、これら諸国に調整の必要が存在しなかったという意味ではない。金融危機という劇薬をもちいなくても、経済は調整可能であり、そうすれば一時の小さな後退の後には、また力づよい前進が可能であったと思われる。金融危機は、そのような調整をも阻害し、経済に深い傷を残した。
このように言いうるためには、金融危機が経済の基礎条件(いわゆるファンダメンタルズ)とほとんど無関係におこるメカニズムを明らかにしなければならない。その鍵は、為替市場に内在する逸脱増幅機構にある。
 逸脱増幅機構の概念は、セカンド・サイバネティックスを提唱した丸山孫郎から借用したものである。丸山自身は「逸脱増幅的相互因果過程」という長い表現を用いている。ブライアン・アーサーの「自己再強化過程」も、同一の事態を指示している。収穫逓増は、いっぱんに逸脱増幅的な過程を生み出す。このような機構の解明は、複雑系経済学の重要な研究領域である。
 為替市場の特性は、通貨の交換比率(為替レート)がどの水準にあるのが適正であるか、だれにも明確には分からないところにある。ニクソンショック後の円ドルレートの動きを眺めてみれば分かるように、円高期には円は従来水準の約2倍にまで高騰し、それから折り返して2〜30%低下するというパタンをとっているが、最初から約1.5倍の最終値に向かって収束するという経路をとっていない。かなりの行き過ぎがなければ、そのこと自体が市場への参加者にひろく認識されない。これは生産物市場と大きく異なる点である。生産物市場では、原材料価格などの激変がないかぎり、競争条件に合わせて、原価に一定率を上乗せして販売価格を設定することが一般的に行われている。品薄による高騰や不況による値崩れがあっても、正常価格にかんする認識がほぼ一般に存在する。為替市場では、このような標準が存在しない。そのため、相場の判断が、値動き自身に依存することになる。
 このような市場においては、投機的な行動が生まれ、それが逸脱増幅機構を作動させる。たとえば、タイ・バーツが下落傾向にあれば、空売りを含めて、売り注文が殺到し、その結果、バーツの下落はより激しくなる。逆に高騰時には、買い注文が殺到し、相場はますます高騰する。このような傾向は、株式市場や土地市場にも見られる。このような機構が明確に働き出すと、それは一種のパニックを呼び、すべての市場参加者が売り方(あるいは買い方)に回り、わずかな時間の内に、数十パーセントもの為替変動を引き起こす。
 このような機構の解明が従来進まなかったのは、均衡理論の焦点が安定均衡点にあったためばかりではない。これらが事態の偶発的な推移にも関係し、ひとびとの通常の判断を越える事態でもあったためである。物理的な逸脱増幅過程では、それを生起する明確な方程式が立てられることが多いが、経済の場合、ひとびとの不確かな判断により推移が変わり、確定した方程式が立てられない。
 このことが力学系としての分析を拒否するものとなっている。これらの現象解明には、コンピュータ・シミュレーションや模擬実験を含む、従来とは異なるアプローチを採用する必要がある。
 分析は困難であるが、機構が解明されるまで、手をこまねいて待っててよい訳ではない。逸脱増幅機構を内蔵する市場に対しては、それが過度の弊害をもたらさないよう、事前・事後の対策が必要となる。
 事前の対策としては、逸脱増幅機構の作用が、投機資金の動きにより強化されることから、それらに対する一定の規制が要請されよう。たとえば、工場建設や貿易などの裏付けのない資金移動には、数日間の審査期間を設け、短期の思惑による資金の投入や引き上げを制限することが考えられる。ヘッジ・ファンドなど短期資金の流入・流出は、これによりかなりブレーキをかけることができる。逸脱増幅機構の作動も、かなり制限されよう。これは資金移動の自由化(いわゆる資本自由化)に逆行するものであるが、短期の資金移動と工場建設にともなう資本移動とを一律に論ずることの方が問題である。
 事後の対策としては、政府間の資金供与などさまざまな手段が取られているので、これ以上立ち入らない。

3.2知的支援と生産性向上
 金融危機を乗り切ったとしても、東アジア・東南アジアの諸国は、より根本的な課題に直面している。これまで、これら諸国の多くは、低賃金と豊富な労働力供給を武器として、世界の生産基地としての地歩を築いてきた。しかし、(その分析の当否はともかく)クルーグマンの論文が問題の所在を明らかにしてしているように、今後は労働供給に制限が生ずるとともに、より低水準の所得・賃金をもつ地域・国々からの追い上げに直面している。このような事態において、一人当たりの所得を引き上げ、経済規模を拡大していくためには、生産物の高度化と労働生産性の向上を実現しなければならない。もし、クルーグマンが言うように、これまでの東アジアの成長が投入の量的増大にその多くを依存するものならば、経済の発展メカニズムの転換が要請されていることになる。
 生産物の高度化と生産性向上は、いずれも技術や行動・知識・学習に深く関係している。経済行動にかんする独自の考察をもつ複雑系経済学は、この点についても、一定の貢献をしうるものと考える。それは有用な知識の在り方について分析を深めてきた。
ある国・ある文化と工業化の難易とに関係して、「工業化の社会的能力」が問題にされてきた。今後、アジア諸国に問われているのは、たんに工業化を進めるだけでなく、生産性を向上させ、製品の質を高め、新製品を開発する能力であろう。これらはいずれも、社会の技術的能力とも言うべきものである。このような能力形成に日本は貴重な経験をもち、知的支援は日本の経済援助の重要な部分をなしている。その基本的な方向に誤りはないが、これらの能力を国民的規模で形成する課題については、なお一層の議論が可能であろう。
 この問題については、わたし自身「社会の技術的能力/動的概念と静的概念」という論文で議論しているので、詳しいことはその論文を参照していただきたい(塩沢、1990)。ここでは、その論文では焦点が当たっていない、知識移転の担い手としてのNPO・NGOつまり非利益団体の役割について触れておきたい。途上国の開発政策は、大きくは初期の政府主導から市場重視・市場志向型のものに変わってきた。しかし、市場での解決にすべてを任せられるかという点を巡って、1990年代に入って、むしろ国家の役割を再評価しようとする動きが活発化している。
 市場至上主義の政策が途上国で直面したジレンマは、任せるべき市場が十分に形成されておらず、その育成・強化を国家の介入に任せざるをえないことであった。しかし、国家の役割を重視する立場にあっても、国によっては、政府の政策立案・遂行能力がかならずしも十分でなく、腐敗の問題もあって、たよるべき政府が頼りにならないというジレンマを抱えている。このような事情を背景として、経済発展における市場と政府の役割を巡る議論が活発になっており、特に日本では、すでに紹介した青木昌彦・奥野正寛の「市場(機能)強化」
論や石川滋の市場経済の「発展促進的アプローチ」などがある(3)。
 これらの議論は、市場か政府かという単純なものではなく、政府が市場育成にはたすべき役割を検討している。しかし、政府と市場という2大機構によってものを考えることに欠落がないだろうか。市場では、基本的に2者の合意により取引が成立する。これに対し、政府は、国民の委託を受けて行動することになっているから、その合意の形成のために、膨大な手続きと形式要件とをみたさなければならない。市場に任せ切れない課題があるとき、その課題に取り組む任務を政府・国家がすべて担うと考えてよいのであろうか。ここに第3の担い手を考えに入れる必要がある。
 NPO・NGOというと、現在の日本では、環境問題に取り組むヴォランイア団体といった印象が強い。しかし、非利益団体の範囲は意外に広く、私立学校から医療法人、社会福祉法人、生活協同組合、労働組合、商工会議所、各種経済団体などに至るまで、さまざまなものがある。これらは、国家機関ではないが、その多くは有償・無償を含めて社会に必要なサービスを提供している。技術知識の普及や生産性向上の運動推進に、これらの機関のはたしうる役割が大おきいと考えられる。
 日本の事例をとってみれば、各地の生産性本部、能率協会、日本科学技術連盟(日科技連)などがあり、戦後の日本の品質改善や生産性向上に重要な役割を果たしている。たとえば、日本的な品質管理法として有名なQCサークル運動は、日科技連が概念化し普及したものである。工業化の初期において、各地の商工会議所や各産業・地域ごとの工業会が商品動向や技術知識の普及に果たした役割も、数量的に捉えるのが難しいとしても、無視することはできない。
 日本の知的支援がこのような非利益団体によって組織・運営されている例は多い。JAICAやAOTSなどが途上国・移行国のひとびと対象に行っている経営や技術の研修の多くも、その実際の企画や運営は、各種経済団体・非利益団体が担っている。
 途上国内部での知的支援が具体的にどのように組織されているかわたしは知らないが、知識をひろく普及しようとすれば、何らかの形で各種の非利益団体に担ってもらうことになるだろう。そうとすれば、政府と市場の役割について考えるとき、つねに第3の担い手である非利益団体を考慮に入れることが必要であろう。バングラデッシュのグラーミン銀行のように、地域に組織されるある種のヴォランティア的活動が、小口金融を可能にし、新事業開始を助けるといった形態も考えられる。
 もちろん、非利益団体がすべての問題を解決してくれることなどありえない。
非利益団体があらゆる領域で政府の役割を代替できるわけではないし、代替しうる領域においても、政府よりつねに勝れた働きをしうるわけでもない。しかし、政府がやってもうまくいかず、市場に任せることができない課題に対して、非利益団体は、その解決に取り組む有力な担い手となりうる。
 経済開発に占める非利益団体の役割が、これまであまり正面きって議論されて来なかったとすれば、日本の経済発展に占めるこれら組織・機関の役割の評価を含めて、まず非利益団体の研究が必要となろう。その上で、援助受け入れ国にどのように類似の機関を創設するか、運営をどうするか、それらが担い手となって行うべき活動に対する支援などについて、総合的な提言がなされるべきであろう。



(1)第1節に関しては、主として絵所秀紀(1997)、白鳥正喜(1998)を参照した。
(2)複雑系経済学のより詳しい内容については、塩沢由典(1997)を参照されたい。吉田民人、中岡哲郎への参照も同書を見よ。
(3)絵所秀紀(1997)、白鳥正喜(1998)の2著の他、石川繁(1997)、白鳥正喜(1997)などを参考にした。


[文献]
石川滋(1997)「市場経済発展促進的アプローチ−理論的位置づけと応用」『開 発援助研究』Vol.4,No,1,44-78。
絵所秀紀(1997)『開発の政治経済学』日本評論社。
塩沢由典(1990)「社会の技術的能力/静的概念と動的概念」中岡哲郎編『技術 形成の国際比較/工業化の社会的能力』筑摩書房。
塩沢由典(1997)『複雑系経済学入門』生産性出版。
白鳥正喜(1997)「開発における政府の役割−世界銀行の開発・援助哲学を中心 として」『開発援助研究』Vol.4,No,1,23-43。
白鳥正喜(1998)『開発と援助の政治経済学』東洋経済新報社。
世界銀行編(1994)『東アジアの奇跡−経済成長と政府の役割』白鳥正喜監訳、
東洋経済新報社(原書は1993年刊)。
Krugman, Paul(1994)"The Myth of Asia's Miracle", Foreign Affairs,
November/December.

第1図



第2図


無限合理性→効用最大化→需要関数 ─┐
                         ├─ 均衡
収穫逓増  →利潤最大化→供給関数 ─┘


第1表   2のN乗に比例する計算時間
━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
問題のサイズN ┃ 10     20   30   40   50     60      70       80
━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
計算に要     ┃ 0.001   1    17   12   35     3.57     3.66     3.75
する時間     ┃ 秒    秒   分    日   年    万年    千万年   百億年
━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
            


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